五若会

五若

由来

五郎久保稲荷神社と五若神輿の由来

当神社の創建年代は詳ではありませんが、全国でも数少ない北向きの正一位稲荷大明神です。 古来、稲荷神社は五穀豊穣の守り神として祀られたと伝えられていますが、このようないわれから中世以来、都市の商家や一般家庭でも、「福の神」として信仰されるようになりました。当神社はその他は特に「火災災害」などの厄除けの神社として偉大な御神徳(ご利益)があると伝えられています。

神社境内の手洗石に天保年間(1830~44年)の銘がありますが、その頃は「武蔵国豊島郡長崎村字五郎久保」といわれていました。当神社の名称もこの地名によるものです。
その後明治年代に至り旧字「五郎久保」「五郎窪」と改称され、その後幾度か町制度の変更により現在は「南長崎3丁目南部・南長崎4丁目・南長崎5丁目」となっておりますが、旧字の時代より氏神として、地元氏子により厚く守られ現在に至っています。

一、初午祭(はつうまさい)

2月初の午の日
昔、農家では田畑仕事が始まる以前に初午祭を行い、その年の豊作を祈ったと伝えられています。

一、例大祭(れいたいさい)

9月の第2日曜日
江戸時代には当神社を氏神として「五郎久保」地区独自の例祭が行われていましたが明治5年、長崎神社が長崎村の村社と定められるに及んで、それまでの風習が改められ、その後は長崎神社の例大祭に準じて催されるようになりました。

一、神輿(みこし)

境内地に安置されている「五若神輿」の名前は五郎窪村の若衆と言う意味でそれぞれの頭文字を取り五若と命名されたもので、皇太子殿下(現在の天皇陛下)御誕生を奉納して昭和9年(1934年)に当時の氏子有志により新調された総欅(けやき)木の白木造りの格調高い神輿です。

力強く張り出した蕨手(わらびて)の屋根は燦然と輝く鳳凰をいただき屋根地は漆の梨地仕上げとなっており、飾り綱は正絹で深みのある金茶色をしております。欅の生地をそのまま表した胴体は内側に金箔を施し、一刀彫の見事なものであります。

新調されてからは長崎神社の例大祭には毎年渡御をしておりました。太平洋戦争が始まり神輿を出すことができなくなりましたが、戦後間もなく又神輿が出るようになりました。しかし戦後日本の経済発展により自動車の増加、担ぎ手の問題等で昭和29年より神輿が出せなくなってしまいました。


昭和50年代に入ると五若神輿を出そうと言う声が多くなり、昭和51年五若会が結成され神輿を23年間無傷で守り通した氏子総代会様の了解のもとに昭和52年9月、23年ぶりに渡御し現在に至っております。

祭礼前日より五郎久保稲荷神社境内に祭ってありますので地域の皆様、是非お目通しのほどお願い致します。

製作者 9代目 後藤直光

一、境内別社

榛名神社
群馬県榛名山、榛名神社の末社
鎮火・開運・五穀豊穣の神として信仰されています。

一、所在地

東京都豊島区南長崎5丁目12番地7号
西武池袋線・東長崎駅・南口から徒歩5分ほど